jozkado’s diary

オナ禁を実践しながら『オナ禁論』執筆をする院生の業務報告。執筆のためのメモなど。

1日目――笑ってしまうほどのパフォーマンス低下

【日記(20/10/19)】

10時起床。自分でも冷静に可笑しくなってしまうほど崩れている。

 

睡眠時間が少ないわけでもないのに、日中もどうしようもない眠気に襲われ、本来なら普通に受けている3,4限の時間もほとんど起きていられなかった。

 

本当に驚くほどのパフォーマンスの低下である。

 

夜に社会調査班のグループミーティングがあったために、なんとか夕食後の時間は起きてはいられた。

 

まずは明日、6時半にきちんと目覚め、起きてすぐに動き出せるようにすることだろう。習慣が脆いことも痛いほど知っているので、こうした日になってしまっても必要以上に落ち込まない、未来に対して悲観的にならないことが大事だろう。

17・18→0日目――目標をきめる

【日記(20/10/18)】

(※研究メモは明日報告する)

昨日が一日中あわただしかったため更新できなかった。

そして打って変わって完全フリーな日曜日となり、リセットに至ってしまった。

 

そのためか、丸一日自分の欲の暴走と、完全に集中が切れてぼーっとする時間になってしまった。オンとオフがあまりにはっきりとしすぎな一週間である。

 

そもそも、今日をオフにする予定にはしていなかったのだが、事故的にオフになってしまった。来週は今週以上にハードだというのに。

 

やらかしてしまった失敗は受け止めるしかないので、明日以降にどう改善を加えていくかを考えていく。

何もない曜日にリセットの危険があることはすでに把握しているが、それ以外にも、〆切等が迫りストレスが増しているときにリセットに至ってしまう傾向もあるように思う。また、オナ禁の実践が「段階的に成長していく」ようにできていない、つまり最初から長期的なオナ禁をやろうとしていたのではないかと感じた。これら2点について、すこし具体的な反省を加えてみたい。

 

ストレスへの対処法を見直す

これまでの10年弱の習慣で、リセットがストレスの解消法になってしまっている可能性は大きい。半ば依存症のようになっているのも、ストレスからの逃避行為として安易に選んできてしまったことにあるのかもしれない。

 

振り返ってみると、ストレスに対する自分の対処法が少ないことに気づく。

・チョコレートを食べる ← 気づいたら摂りすぎになって胃腸を壊す

・ランニング(一時期) ← 1か月程度でひざを故障し(オーバーユース)習慣が途切れる

・筋トレ ← 6月の腸炎以降習慣が途切れる

・リセット行為 ← 手軽で続けられてしまう。⇒結果、ストレス対処法として残る

 

結局、筋トレと、無理のない範囲でのランニングをどう生活のなかに取り込むことができるかが、リセットのリスク、それへの依存を克服していくのに取り組みやすい道であることではないかと思う。

 

目標をきめる

オナ禁実践に関して、段階的なレベルアップができていなかった。

 

具体的に〇日継続を目指す、というような目標がないと、意識せずに続いている間は良いのだが、一度続かなくなるといつまでも再開しなくなることに繋がりやすい。気づくと「何のためにオナ禁をしていたのか」すら曖昧になってくる。

 

そうならないためにも、「前回よりも少しでも上のレベルに向かっていく」イメージをもって、工夫と自律を自分に課していくことが大事になるだろう。

 

そういうわけで、次回の目標を設定する。

今回で、このブログを開始してからの最長記録を(辛うじて)更新したので、次は20日を超えることを第一目標としたい。それを超すことができれば、次の第二目標を設定していく。

まずは11月8日(日)(ちょうど、自分にとってリスクのある日曜日である)まで、気を抜かず調査や研究の進捗を生み、また個別指導の質も高めていく。丁寧な生活を改めて心がけていこう。

16日目――あわただしい

6時起床。動き出しが遅かったのでシャワー後の朝7時のラジオに微妙に遅れてしまった。

土日(特に個別指導のない日曜)は朝の義務がないので、自分をどれだけ焚きつけられるかにかかっている。明日・明後日特に頑張ろうと思う。

 

夕方までという限られた時間だったが、独検2級の過去問の復習、Mullaneyの文献に取り組むことができた。土曜日は授業準備も含めて、ほとんど一日中個別指導に時間を費やすことになるが、1時間でも30分でもいいので自分自身の時間をとりたい。

 

明日も朝から気が抜けないので、この辺りで切り上げようと思う。

ここ数日心なしかあわただしいが、優先順位を決めて動いていく癖をつけていきたい。

15日目――10月の折り返しと油断について

【日記(20/10/15)】

5時40分起床。腹痛は和らいだが、朝の動き出しで危ういところだった。

昨晩、アダルトな広告が目に入ってしまったことなど、引き金があってのことだろう。

 

これまで継続が失敗した原因も、こうした些細な情報のコントロールを怠ったことにあることが多い。

 

正直、今日のブログを書き上げるまでにも何度となく引っ張られそうになった。

自分にとってはここからが本当の勝負なのだと思う。

 

オナ禁の実践だけでなく、ドイツ語の学習も、今日からもう一段階ギアを上げていかねばならないことが分かった。

 

独検2級の問題を解いたのだが、とにかく単語の蓄積がないために文の構造もとれず、結果的に読めない・時間がかかる。

この課題は思いのほか大きかった。これから1か月半の間で引き上げていくためには、単語が自分にとっての鍵だとはっきりした。

 

(遅くなってしまったのと、明日も早いので研究ノートは後日まとめる)

 

さあ、ここからがスタートだ。

14日目――お腹痛い

5時40分起床。昨日が遅かったからか、夜明け前に目が覚めた。

ただ、どうも昨日からお腹につっかえるような痛みがある。何となく、4か月前(もうそんなに前か)の腸炎に近い。

オナ禁を始めると2週間で腸炎になる、というのが個人的なワンセットなのだろうか。オナ禁自体は自分の生活を見直すきっかけにはなっていると思うが、そこに腸炎が付録としてついてくるのだったらあまり歓迎はしない。

 

という冗談はさて措き、研究のメモなど書き残しておきたい。

 

【研究メモ】

ラニー(2006)つづき

Part1 The Social Shape of Abstinence
Chapter1 Seeing Not Doing: Time, Place, and Language
第3節 Language

我々が使用している、禁欲を指し示さなければならない用語は、以下の3点についてかなりのことを明らかにしてくれる:

 1) 我々の集団的な意見(sentiments)がどこにあるのか

 2) 一時性(つまり、現在の禁欲実践者は以前は(禁欲せず)「やる人」であったのか?という問いや、現在の禁欲実践者は永久的に禁欲するつもりなのか?という問い)

 3) 指向性(容易に、あるいはアイデンティティに対してほとんど影響なく人は禁欲の状態に入ったり抜け出したりすることができるのか?という問い)

 

ただ、そうはいっても、禁欲を記述するための用語は、主として使われないことがしばしばあったり、あるいはそうした用語があるにしても、not-doingsの複雑さや事情を捉えそこなっていたりする。前者の〔使われないという〕問題は不可視性の1つで、後者の〔捉えそこねるという〕問題は不適切さの1つであるように思われる。(p.26)

※第一の問題は、このあと第1項で、第二の問題は第2項で扱われる。

 

ある個人について多くを分かろうと、我々はしばしば、最も簡潔な記述をあてにする。なぜなら、我々が個人について予想することは、異なるアイデンティティを指し示すために用いる言語で作られているからである。(p.26)

⇒言語による枠組みの外で可能性を想像することはできない。「言語の制限は、禁欲実践者たちにとってのさらなる重荷を表す。〔ただでさえ〕彼らは、自分たちのアイデンティティの決定の正当性や、その決定の背後にある論理を他の人に納得させるという課題と常に格闘しているからである。」(p.27) 

 

第1項 Term Dillenmas, Part One: Invisibility

分類の仕組みについて絶えず議論されるのは、そうした分類が本質的に、生得的・明快に見いだされる区分を反映していない、ということである。

言語の区別する力によって、我々は言語的にも精神的にも、社会的に重要な特徴の地位を高めることができる。(他方、重要でない者は背景に退けられる)

分類について論じる文献は、「モノ」に焦点を当てている一方で、言語を通して知覚でき、意味あるカテゴリの創造〔のしかた〕は、それにもかかわらず行為に当てはめてくる。

not-doingsを記述するための用語が少ないことが、困難を引き起こしている。

人のnot-doingsを指示するのに使える概念が欠けていることで、ある程度not-doingsにもとづく正当な自己の表現のプロセスと、他人がそれ〔=not-doings〕を認識する能力に困難が生じている。(p.27)

さまざまな禁欲の実践それ自体を指示する用語(名詞や形容詞)はたしかにある。しかし、それは性欲や食欲、財欲といった、禁欲のなかでも大きい3つのトピックとして著者が先に定めたものを超えてまで拡張はしていない。基本的には"non"だとか"ex"だとか、行為を表す単語に否定の接頭辞をつけるということをしなければならないことをムラニーは指摘する。

つまり、not-doingsを、それ自体ではっきりしたものとして認識するのではなく、doingの否定が強調されているのが、用語に着目することで分かるというのである。

 

(メモここまで)

 

【日記(20/10/14)】

 冒頭で冗談を書いたが、原因はおそらくここ数日毎晩のようにチョコレートを口にしていたからだと思う。

 

脂肪を摂りすぎないよう少なめにはしていたが、昨晩は量が多かったように思う。

チョコレートは摂りすぎると腸内環境が悪くなるらしい。昼食にヨーグルトを摂ると少し和らいだ(単純すぎ?)

 

オナ禁をしていても、食生活が不摂生だったり運動していなかったりすると効果は薄い」という言説は頻繁に聞く。

 

オナ禁効果と結びついている点の真偽は定かではないが、身体を総合的に管理して自分の日々のパフォーマンスをコントロールできるようにすることを心がけるなら、食事に気を配るのは当然必要なことだろう。

 

高校生の頃なら毎日のように菓子を食べても何も不調はなかったが、今はもうそうはいかないのだな、と、少し歳をとったことを実感した。

 

13日目――文献で結構身も蓋もない話が出てきた

8時起床。目覚ましに気づかなかった。
まだまだ習慣化には至っていないことが分かる。
いちいち自分を責めても何も特にならない、という考えは身についてきたので、起床後はすぐに外に出て朝食→カフェで昼まで作業、という感じで動くことができた。

【研究メモ】

・ムラニーの続き

Part1 The Social Shape of Abstinence
Chapter1 Seeing Not Doing: Time, Place, and Language
第2節 Physical Locale

禁欲は、場所によって異なるものを意味する。禁欲の可視性(visibility)の変化は、〔禁欲実践者の〕場所の移動に従属した関係にある。場所が禁欲の可視性に及ぼす影響は、もっと小さな規模でも起こりうる。

また、社会的・職業的集団もnot-doingの重要性と可視性に影響を及ぼす。つまり、禁欲実践者の社会的地位にもとづけば、それほど驚くべきことのように思えない禁欲もあるということである。社会的地位は、ある形式の禁欲の訓練のしやすさに影響を及ぼすだけでなく、他の人がその禁欲に気づき、反応する程度[度合い]にも影響を及ぼしうる。

まとめると、「明らかに、禁欲の注目のされ方は時と場所によって変化する。そしてそれにより、人の禁欲は目立ったり背景に隠れたりするのである」。(p.25)

話はこれだけでは終わらない。ムラニーは、行為の可能性が別な仕方でも生じうることについて、次のように述べる。

時や場所に加えて、誰がやらないこと〔=禁欲〕に取り組んでいるかも、その重要性に影響を及ぼしているように思われる。(p.25, 太字は本文中ではイタリック表記)

これは結構身も蓋もない話で、本文中の事例も、要は魅力的な人物が(例えば貞淑を守っているというような)禁欲を行っているから意外であり、注目されるのであって、魅力のない人物が同じことをしても、言ってしまえば「負け犬の遠吠え」のようなものだということである(さすがにこの箇所は読んでいてキツかった)。

第3節 Language

ラニーは、異なるタイプの禁欲の共通性や一貫性を考慮しなければならない(導入で述べていたこと)と主張するが、それでも否定できない相違について触れている。その要因は言語に由来するという。

われわれはこれらの相違の原因を、言語と、禁欲を表現するのに用いて(あるいは間違って用いて)いる用語に帰するかもしれない。(p.25)

著者の方針としては、「特定の形式に関連している言語に焦点を当てることで、言語上の分類のシステムが、禁欲にもとづくアイデンティティの包括的な理解をどのように制限あるいは促進しているのかを見ることができる」(p.26)ようにするというものである。
(メモはここまで)

・まだ何も形になっていないが、来週に進捗発表があるので、現状入手可能なもので投げ込めるだけの構成にはしておきたい。
 ありがたいことに、夏季休暇前よりも2,3冊は注目すべき文献を増やせているので、あとは読めるかどうか。

【日記(20/10/13)】

今日は寝坊してしまったのと、日中(特に夕食後)に動きが遅かったのもあり、ドイツ語の学習が文章読解1本にとどまった。最近しばらく単語のボキャブラリーが積みあがっていないので、きちんと整理しなくてはならない。これまで自前のExcelシートで机に向かって作成してきたが、隙間時間で単語の復習を片手でできる仕組みを作れないか?模索しようと思う。

5限終了→夕食後、一息ついてしまうために切り替えがうまくいっていないことが多いと感じる。思い切って夕食先で文献を1時間ほど読む時間にしてしまおうか…。まだ決め切っていないところなので、工夫が試されるだろう。

まだまだ自分の一日は改善の余地があるので、地道に変えていきたい。

12日目

朝からばたばたしていたらすっかり書き出しが遅れてしまった。

6時40分起床。起きてすぐに朝食→カフェに向かい、作業開始。

週の前半はこういう生活スタイルで固定させるのもアリかもしれない。

 

【研究メモ】

ラニー(2006)つづき

Part1 The Social Shape of Abstinence
Chapter1 Seeing Not Doing: Time, Place, and Language (導入)

著者はZerubavel(1997)のいうsociomental lensesという概念道具を用いる。これは、個々人のバックグラウンド、経験、集団の協力、身体的・社会的位置によって形成されるもので、純粋な、あるいは一貫した観察などないという考え方に立っている。

この視点――時と場所により、禁欲をみる能力に影響を及ぼす――に立つなら、not-doingsに関わっている個人だけによる発言とは独立したやり方で禁欲を見ることができる。

ある所与の行為をするのが既定になっている規範(unmarked category)が変動していくのと同様に、禁欲も状況によって特徴的な点が変化していく。注目される/されないのも、突然の変化として現れるだろう。

not doings(unmarked) がnot-doings(marked)になるのは、どんなタイミングなのか?

ラニーはこれに対して3つの因子(time, place, language)をあげている。これらの因子により、禁欲を認識でき、1つの社会的カテゴリとして認めることができるという。

興味深いことに、禁欲を見る〔わかる〕こととそれについて語ることとの間の関係は、いくぶんか共存的になっている。つまり、一方で我々は、not-doingに名前をつけるために、まず最初にそれを見なくてはならないが、最終的にそれらを記述するとに我々が用いる言語は、今度は我々が禁欲を認識して理解し、その決定や他のふるまいを評価するその方法に影響を及ぼすということである。(p.20)

第1節 Temporal Location

「時間」という次元 … 2通りの作用のしかた(1), (2)でnot-doingsが禁欲の資格を得るかどうか、そして結果的に注目に値するものとなるか、に影響する。

(1) 彼(女)のライフコースの間でいつ/どの時点に禁欲するのか

(2) より大きな歴史的文脈のどこで、その禁欲が生じるか

禁欲が重要性を増し、目に見えるようになってくるのは、その行為が個人かつ/または社会のtimeの規範を侵害するときである。(p.20)

個人を超えたマクロな水準で見たときと、個人の水準で見たときに、禁欲と呼ばれうる行為かどうかの判断の俎上に上がると考えているのだろう。

禁欲は、行為が〔もうなされるだろうと〕予期されて初めて意味のあるカテゴリになるのである。(p.20)

※本文中ではリリー、サラ、デビー、ジョージア、マーラ、ジェイソンなど禁欲者の例が述べられていく。

 

また、「人生の中で、どのくらいの長さ禁欲をすることが受け入れられるかは、ある社会の歴史的文脈の中でも異なる」と述べる。禁欲のアイデンティティも、特定の歴史的条件のもとで意味をもつにすぎないのである。

ここでムラニーは、LymanとScott(1989)が提唱した、始まりと終わりで注目される期間としての"time tracks"という用語を導入する。time tracksにうまく乗れている人は社会的ポイントも高いが、(あるtrackを始めるのが早すぎたり遅すぎたりすることで)ペースや順序を破る人は、社会的に承認されない様々な形でのリスクを冒していることになる。(注:この概念は、日本語でいう「適齢期」をイメージすれば理解しやすいと考える。)

time tracks概念は、ロバート・マートンのいうSEDs(社会的に期待された持続)に一部依っている。マートンがした重要な指摘は、「未来についての期待[予期]が現在のふるまいにおいて鍵となる役割を果たしている」ということである。

SEDsとtime tracksの議論は、典型的に「やること」に焦点を当てているが、禁欲という段階[時点]の問題にも関係がある。本書における禁欲実践者たちは、どういうわけかtime tracksから落ち[離れ]ているように見える点で、上述のような(SEDsやtime tracksの議論で問題となっている)禁欲の表現とは異なっている。禁欲実践者たちが「間違っていること(wrong things)」といって禁欲している行為というのは、ライフコースにおいてある位置が与えられている、人がすべき行為なのである。

 

(メモここまで)

 

【日記(20/10/12)】

調査依頼の連絡をしたり、メンバーへのアナウンスをしたりと、調査実習のほうも少しずつ具体的に毎日動き出している。

個人的にインタビューのアポイントメントをつけるところまでは苦労しないのだが、その先、インタビュー本番までの準備の完成度を上げるところが弱い。下調べが不十分で、限られた時間の中で本当に聞くべきことを聞けているのか、自信のない内容になることが多いように感じる。今回はそうならないよう、準備を徹底的に行っていこうと思う。

明日もあまり時間的な余裕はない。しかし「忙しい」とは言わない。動き出しを早く機敏にし、時間の使い方を工夫すればいいだけだ。