jozkado’s diary

オナ禁を実践しながら『オナ禁論』執筆をする院生の業務報告。執筆のためのメモなど。

11日目――バッファを設ける

8時30分起床。さすがに昨晩の就寝が遅すぎた。
平日はこれではまずいので、平日・休日を問わず就寝のデッドを決めておきたい→1時半

8月末から自作のタイムスケジュール表で日中にやることを計画立てて行っているのだが、ここ10日ほどは基本的にスケジュール通り集中して行えていると思う。

最近の成長は、一日のスケジュールの中に必ず「バッファ」を設けていることだ。
今までの多くは、スケジュールを決めるときは必ずといってよいほど、時間もやることも詰め込みまくっていた。

そうすると何が起きるか。
時間通り始められなかった時や、決めた時間内でやるべき範囲まで終わらなかった時、成功体験は積み上がらない。その度ごとに自己肯定感を自ら下げることになる。以前書いた「自傷行為」まっしぐらである。

たかがスケジュールだが、気づきにくいからこそボディブローのように効いてくるのではないかと、最近は感じている。

こういう経緯もあって、最近は意識的にスケジュール中にバッファを設けるようにした。
具体的には、

  • 夕食前など、作業を中断する前の1時間程度、「特にコレをやる」と決めない枠を作っておく。
  • 日中に時間を取れなかったものや、時間内に終わらなかったものを、その1時間の中で小分けにして行う。
  • その時間でも終わらなかった時は「しょうがない」と開き直る。終わらなかったという事実は、スケジュールの改善役立てる。

だいたいこのルールでやるだけで、「中途半端に終わってしまったもの」が減る。それだけでなく、「終わらなかった」という事実に対して必要以上に落ち込まなくなる。今までと比べれば、精神的に遥かに前向きになる。

もし、「毎日自分の設定した目標を達成できない」と落ち込んでいるなら、このやり方が有効かもしれない。

【日記(20/10/11)】

数日前から、ドイツ語検定2級の問題集に入り始めた。「30日」とタイトルについているが、そんなに悠長にやってもいられないので、2~3倍速で進めている。本番までに最低2周をするのと、早いところボキャブラリーを増強しようと思う。

日記に入るまでが長くなったので、研究メモは明日載せようと思う。ムラニーの文献も少しずつ具体的な話に入ってきた。今週~来週にかけて、研究の進捗は特に集中して上げていきたいところだ。

10日目

7時30分起床。6時半に目覚めたが、朝7時のデッドがないためか、二度寝かましてしまった。

平日の疲労もあったのだろうが、ここで気を緩めたくはない。
特に今週からは、個別指導も1時間早い時間に担当するコマが増えたので、準備だけで午前中が吹き飛ぶ。

まだまだ時間の「貯金」は作れないので、休みだからといって余裕ぶってはいられない。

1日まるまる塾という感じで、帰宅して洗濯などして一息ついたら、この時間になってしまった。
明日の時間・パフォーマンスをきちんと確保するためにも、手短にまとめて終える。

9日目

6時40分起床。平日の動きは慣れてきたように感じる。もう30分早く起きられるとベストなのだが。
ただ、まずは欲張らず7時のラジオを欠かさず聴けるよう安定させていきたい。

やはり金曜・土曜は個別指導の準備もあるので時間的な余裕が少ない。しかしその中でもムラニーの文献を一段落だけでも読めたのは大きな一歩だと思う。毎日少しでもいいから触れて、自らの関心や読んでいる文献の議論の流れを把握しておくというのは非常に重要なので、なんとか習慣化していこう。

【研究メモ】

ラニー(2006)つづき

Part1 The Social Shape of Abstinence, Chapter1 Seeing Not Doing: Time, Place, and Language

人が「やっていない」ことを他者が「(見て)わかる」にはどうすればよいか。
これに対しては、禁欲実践者自身による表明に完全に依存しなくてはならないと考えがちである(この点は、注目されないnot doingsと、禁欲のnot-doingsの間の共通点である)。
一般に認知社会学、特に知覚〔認識〕の社会学の領域によって、この答えようがなく解きようがないような問いを引き受けられる手法(道具, tools)を我々は得られる。

(メモここまで)

【日記(20/10/09)】

自分の研究について進めながら、社会調査の実習で必要な情報の下調べも行うというのが、目下力を注ぐべきところ。下調べはかなり充実させることができているので、グループメンバーと質問事項を洗練させていくのが次回ミーティングまでの課題だと思う。

個別指導は、やはり猛烈にエネルギーを使う。
生徒の学習への意欲を高めて、自分が必要なくなるのが目標だが、実際そこまで至っているかというと難しい。

また、生徒個々人への指導だけでなく、カリキュラム作成や校舎の経営事情などにも首を突っ込みはじめたので、単なるアルバイトではなくなりつつあるように感じる。

講師の中で校舎長と年齢が一番近いのもあって頼られている部分もあるのかもしれないが、突然丸投げされたりして負担が激増するようなことは避けなければならないと思う。

自分が時間を注ぎ、パフォーマンスを高めたいのは、あくまで研究だという軸をぶらさないようにしたい。

研究関係以外のパフォーマンスも同時に高めていくのは何のためか、ということを考える1日になった。

明日は半日個別指導だが、午前中の時間を大事にしたい。

8日目――自尊心の自傷行為に気づく

6時40分起床。木・金の朝は月~水とは少し異なる。

7時からのラジオを机に向かって聴いているからだ。木・金のドイツ語の番組は応用編で、テキスト無しで聴くのはかなり難易度が高い。そこでGoogle Documentの音声入力機能を起動してリアルタイムでドイツ語を書き取ってもらい、それを見返すことで復習に役立てている。本当に便利だと思う。

(参考ページ)

www.teradas.net

 

工夫次第で自分の勉強の質・量ともに高めていくことは可能なので、今後もこうした工夫は重ねていきたい。

さて、今日も限られた時間ではあったが、研究の進捗を生んだのでメモを残していく。

 

【研究メモ】

 Jamie L. Mullaneyの主著"Everyone Is NOT Doing It: Abstinence and Personal Identity"(2006)のイントロ(一部・つづき)

本書の戦略が述べられていく。

著者のムラニーは、次のような仮定をしばしばもつ読み手にあらかじめ応答する:

1.著者は禁欲の道徳的な次元に関心があるのだろう

2.著者は禁欲のある特定の形式(もっぱら性的禁欲を、〔次に〕それほど多くはない程度で薬物とアルコールの禁欲)に焦点を当てている。

 

たしかに、禁欲にも様々な側面(貞淑さ、依存からの回復、菜食主義など)があり、それらが具体化されていることはムラニー自身も認めている。しかし、次のように反論をする。

1つ1つタイプごとに禁欲を研究し続けようとするのは重要である一方、禁欲がアイデンティティの包括的なプロセスとしてどのように作用するのかは、我々がタイプ比較を始めない限り、部分的で不完全にしか分からないままだろう。(p.13, 太字は本文内イタリック表記. 以下も同じ)

比較をしても、リンゴとオレンジの比較行為のようなものにしかならない(=タイプ間の違いしか分からない)のではないか、という批判に対しては、次のように主張する。

禁欲が、ただアイデンティティの個人的な目印としてだけでなく、社会的、行為的(behavioral)、認知的プロセスとしても作用するかどうかを確かめるために、タイプ間の共通点を調べなければならない。とりわけそれは、社会的アイデンティティが、個人間の、集団間の、そして類似点と相違点の諸関係の、システマチックな組織と意味であるからである。(p.13) 

以上のようにムラニーは、特定のタイプ間の共通性や違いの問題を調べるのでは不十分で、タイプ間の境界を超えなくてはならない、という立場をとる。

心理学的立場との距離

ラニーは、禁欲の問題に対して、より心理学的な問いである「なぜ」や「ハウツー」よりも、禁欲の「どのように」をとり上げる。

彼女は心理学で禁欲の根源をたどろうとすることは、「どんな禁欲の形式も不安の反応として単純に片づけてしまう危険を冒している」と考える。

よって、「本書はその展望と範囲の点で心理学的ではない」(p.14)。

そのうえで、焦点を当てていく部分について次のようにまとめる:

本書は、禁欲の正しさの問題を引き受けるわけでもなければ、人を動かして自らの主義を信じ込ませようとする禁欲起業家(abstinence entrepreneurs)の努力を評価しようともしない。そうではなく、本書は私が「日々の禁欲実践者(everyday abstainers)」と呼ぶ、やらないことを自分の自己の感覚へと積極的に組みこんでいる人々の生活を調査する。彼らが〔禁欲を〕決心した背後にある心理学的な刺激について考察するのではなく、次のような方法に焦点を当てていく。すなわち、その方法のもとでは、禁欲についての私たちの理解における現代の状況や歴史的な変化が、集団としての我々の、やらないことの考え方だけでなく、アイデンティティの構成要素として禁欲を選ぶ人々のきわめて個人的な、日々の実践にも劇的に影響を及ぼしうる、そのような方法に焦点を当てていくのである。(p.14)

ようやくイントロの大半を通読したので、注釈を眺めてからChapter1に移っていきたいと思う。

 

【日記(20/10/08)】

 午前中に髪を切りに行ったのだが、起床から散髪に行くまでの間の時間は生産的かというと微妙。

ひげの処理(濃いわけではないが、数日に1度少し丁寧にしてあげる必要がある)とシャワーとを、ドイツ語ラジオの後に済ませると、時間があまり残らなかった。時折こうせざるを得ないと考えて、髪切り前にタスクを詰めこまなければよかった。

本当にできるか分からない状況に、無理ゲー的にタスクを詰め込む→結果手が回らず達成できない→自信をなくす→再び無理ゲー的に予定を詰め込む→…というループからはまだ抜け出せていないことがわかる。

 

このループは

・無駄に自己肯定感を下げていく

・自分が立てた目標に対し、初めから「達成できないかも」という意識を埋め込む

・自分で自分を信じられなくなる

という3点セットがついてきて、自尊心の自傷行為に等しいと考えるようになった。

 

客観的に見れば些細なことだが、自分の日々の行動を振り返る意味では、今日の一件は重みを持ってくる。

 

現状出来ること・出来ないことを把握して、無駄に自尊心を自傷しないように気をつけたいと思った。

 

長くなってしまったので今日はこれだけにする。

7日目

6時20分起床。起きてすぐ荷物をまとめて外に出て、朝食後すぐにカフェで作業を開始できるようにした。結果、7時15分にはカフェの机に向かってドイツ語学習に取り組めた。目が覚めてからの動き出しを早くできるようになってきた。

今日も少ないながら進捗を生んだので、文献内容を残しておく。

【研究メモ】

 昨日の続き。

禁欲が含みこむ道徳性の問題

現在は、他人の人生に全面的に介入していく潮流があり、他人にたいして「何をすべきでないか」を言うことで生きている人、とやかくおせっかいを焼く人がいて、そうした存在は無視できないと述べている。

結果として何が生じるか。それは、「禁欲は「正しい」」というメッセージが罷り通るようになる、ということである。ここで著者はジョージ・W・ブッシュ政権時代の性教育プログラムへの予算の偏りを例に挙げている。

禁欲の研究も道徳の次元に依っているところがあり、著者は「しばしば道徳のレンズを通して、…ケースバイケースに様々な形式の禁欲を扱う」こととしている。

性に関する禁欲に限らず、アルコール、薬物、食事などは、長年にわたり続いている禁欲の「ホットな話題」であると著者は考える。これらの禁欲は身体に作用する。そして、そうした身体がそれぞれの自己の拠り所として役立つのだと、多くの人は考えている。「ある物質が負の関係をもつようになるときは、そのような”快楽”への欲求を制御することは、人が、自分が何者であるかについて肯定的な表明をできる1つの道になる」(11ページ)。

禁欲研究への大きく2通りのアプローチ
  1. 人はなぜ禁欲するのか
    この問いには、個人の伝記・手記を手がかりにして考える人もいれば、禁欲を強化する歴史的な偶然の出来事を考える人もいる。
    この問いによって明らかにすることは、
    ・自己浄化や社会改革のような、特定の目標に達するための装置としての禁欲
    ・禁欲(すること)が発揮する象徴的な機能
     (賞賛や軽蔑でもって、またはこの2つの混合した形でとらえられうる。)
  2. 人はどのように禁欲させられるのか
    禁欲のハウツーというテーマも、道徳性の問題を利用している。
    この問いによって明らかにすることは、
    ・何によって人が禁欲することに成功しているのか
    現代の更生[回復](recovery)プログラムも、古代のキリスト僧カッシアヌスのモデルに共鳴するところがある。ポイントは、(カッシアヌスの禁欲システムと同様)禁欲実践者はrecoveryの目標に向かって進んでいくわけだが、決して完全に目標に達することはないということである(recoveringではあってもrecoveredとはならない)。それでも、禁欲志望者のためのハウツーを、これらのモデルははっきりと描いている。何かをやめることを主題とする文献では、禁欲することで自分自身からも、隅で潜伏している依存からも救われるのだと約束されている。

(メモここまで)

 

【日記(20/10/07)】

午後~夜までは実習とゼミがあるので、自分の研究等が直接進むことはあまりない。

実習はようやく調子が掴めてきたかもしれない。メンバーとのコミュニケーションを出来るだけ密にとっていくことが今後特に重要だろう。

 

夕食後は、個別指導準備のために東大現代文を解いた。過去問には何度もあたっていたはずなのに、情けない話、適切な解答を書ききれていないように思う。読解というよりは日本語の問題というべき間違いが散見された。論文作成にも活きてくると思うので、丁寧に向き合いたい。

 

また、今日から独検2級対策問題集に入った。これまでの問題や参考書がいわゆる基礎レベルだったのだとよくわかるような難易度の上がり方だった。

耳の訓練はもちろん続けていくが、単語面での不足が浮き彫りになったように感じる。

「今までの学習で一度でも触れたことのある単語を正確に覚えているか」「一度出た単語の別の用法をおさえているか」など、見直していきたい。

 

明日は3限しかないが、午前中に散髪に行ったり、個別指導の準備や調査実習のタスクがあったりと、決してすべての時間を研究やドイツ語学習に自由に費やせるわけではない。朝から集中力を高く維持して過ごしたい。

 

6日目――単純な話

今日は6時起床。7時に間に合うようにシャワーを浴びて外に出た。自分の望む日常の行為を選んでコントロール出来てきているように感じる。こういう日々のほうが間違いなく自己肯定感も高まるのだろう。

今日で1ミリでも進んだ研究の進捗状況を報告する。

【研究メモ】

Jamie L. Mullaneyの主著"Everyone Is NOT Doing It: Abstinence and Personal Identity"(2006)のイントロ(一部)を読んだ。
単になにかを「やらない」という意味ではなく、個人のアイデンティティを構成する重要な要素としてabstinence(差し当たり「禁欲」としておく)を考察しようとするのが、この著作の目的となっている。著者のより大きな目標とは、「我々が自己や、社会的世界における日々の相互作用を理解する際に、当然だと思っているが道具として重要なこの部分を、前面に押し出していくことである」。

著者のムラニーが設定している問題は

  • やるように期待されていることをしない人々の間にある共通点は何か。
  • 自発的にやらないという諸行為が、どのように我々のアイデンティティに影響しているか。

※著者は38人の様々な禁欲実践者(abstiners)へのインタビューを実施した。

著者は「やらないこと(Not(-)Doing)」についての一般的・伝統的な理解を整理するなかで、禁欲の概念を道徳性の問題に含めて考えざるを得ないと述べる。ここでいう道徳性の問題とは、「道徳的に優れたことをしているという理由で、そうしていない人びとよりも自分が高い位置にあろうとし、自分より低い位置の人々を見下す」という問題である。

このような問題が禁欲の実践においてもありうるのではないか?という質問を、著者は研究の途中で受けた。
著者はこうした質問に対してどのように理解していったのか。

(メモはここまで)

【日記(20/10/06)】

午前中のドイツ語学習でディクテーションを50文ほど行った。自分の聴きとれる音がまだまだ少ないことを認識させてくれるので為になる。

夕方のゼミでは、同期の進捗等を聞いたが、自分が圧倒的に進んでいないように感じた。

自分のパフォーマンスを上げるのは単純な話で、人と比べたり悲観的にならなければよい。
だが、実際比べてしまうし、自分の歩みの遅さに嫌になることなど一日の内に少なくとも10回はあるだろう。

単純に考えれば、比べることは当然してしまうとして、そこで手が止まってしまうことが問題なのだ。

比べていても良いから、自分が進められるペースやスケジュールを冷静に把握して計画を立て、すべきことを着実に実行していくに限る。

最優先で考え、悩むのは目の前の課題に対して。そこから逃げないように。
単純に考えることで身軽に実行していけるようにしたい。

5日目

【日記(20/10/05)】

6時50分起床。6時20分から数回起こされたが、動き出せたのはこの時間だった。
まだまだだらしないと思うが、平日は7時にはラジオを聴かなければ、という気持ちが起こるのでなんとかなっている。

こうした理性が働かない土日に頑張れるか。それは今週の平日朝の習慣づけ次第なはずなのでルーティン化に努めたい。

午後から夜まで大学の講義・ゼミがある日なので、自由に動けるのは午前中だけである。日曜以外は基本的にこんな感じなので、午前をどれだけ自分のために使えるかが今後3,4ヶ月のポイントになる。

ルーティン構築

今日は英語論文の読み切りと、ドイツ語の学習で午前中は埋まった。
だいたい8時くらいから
ドイツ語(1時間)→文献読む(2時間)→ドイツ語(1時間)
とドイツ語学習で挟む構成が理想的なのではと感じた。

明日から

1日目の夏休み反省の中で挙げていたが、研究関連文献をいい加減読み進めていきたい。

このブログの当初の目的はあくまで研究メモなので、いつまでも日記ばかり綴っていても仕方がないだろう。

自分にエールを送って進めていきたいところだ。