jozkado’s diary

オナ禁を実践しながら『オナ禁論』執筆をする院生の業務報告。執筆のためのメモなど。

2日目ーーまとまらない?

6:30起床


朝がグッと寒くなった。

朝読書の時間が、家の中だと辛くなってきた。ついつい布団にくるまりながら読んでしまう。


明日から、朝は起床したらすぐ身支度をして外に出ようと思う。

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今日は昨日読んだターナーの論文のまとめと、ガスフィールドの著作のまとめを午前中に行った。



フーコーが行った規律と禁欲に関わる研究は、ウェーバーの合理化の議論と接続する、というのがターナーの解釈である。


これは確かにそうかもしれない。フーコーの『監獄の誕生』や『規律と刑罰』のように、個人をより管理可能なように規律で囲い込むことは、個人に安全を提供しつつも、より自由になったかというと、決してそうではなかった。合理的な個人の管理が、かえって不自由をもたらすという意味で、ウェーバーが指摘した合理化過程の「意図せざる結果」が生じているといえそう。


ただ、オナ禁にこの議論をどこまで適用してよいかは、よく考えないといけない。


オナ禁は、宗教上の制度(修道院)や公的な管理下(刑務所、病院、学校)で実施されるようなものではなく、あくまで個人間で始まった取り組みだからだ。


そうなると、合理化の徹底が不十分なのではないか?とも思えてくる。もっとも、「効果」の編成に伴って、これを最大化しようとする「正しいオナ禁」なる言説が出現するようになることは、合理化の進展といえるかもしれないが。



合理化がどのように進められるかはよく見ていく必要があるだろうが、最終的な射程はやはり、「オナ禁という現象が、結果的に何をもたらしうるのか、あるいは、もたらしているのか」という問いであることは変わりない。



この点、先に読んだマラニーのENDにおける現代的禁欲の議論は、個人のアイデンティティの戦略にフォーカスを絞りすぎているのかもしれない。


読んでいく中で方向性が見えてきているような、行き先が散らばっているような、なんとも言えない状況が続く。今はアタマを使い続けたい。