12日目ーーキー概念の析出
7:45起床
寝坊した。個別指導の翌日は相変わらず難しいな…。
ただ、起きた時点で「これは寝坊したな…」とハッキリ分かっていたので、布団の中でウダウダすることなく、朝の準備をして出られた。
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個別指導までの時間で、マラニーのENDの再読をした。
禁欲は歴史的にいくつかの枠組みで説明可能なのだが、現代的な禁欲はどうか?
この問題について、1980年代から社会学者は考えてきた。そこでのアイデアを参考にしつつ、マラニーはアイデンティティの戦略として禁欲をみようとしている。
それは、後期近代と呼ばれる現代は自己が流動的で、アイデンティティを支えるものを自ら選び取り示していかなくてはならない状況だからだ。
そんな中で、「やらない」ということも、単に行為の不在や欠如を表すのではなく、積極的な行為として、アイデンティティの戦略としてみなすことができるのではないか、というのだ。
確かにそうかも、と思いつつ、では、現代的禁欲がアイデンティティだけでなく、社会の構造をどのように変容させているのか(あるいは、変容させていないのか)?
この問いにはマラニーは道を示していないように思う。
それは恐らく、マラニーのとる立場が現象学的で、構造への焦点化が薄いからではないかと思う。
自分がオナ禁の研究を通して最終的に迫りたいのはその点である。かつてウェーバーが『プロ倫』で論じたような、いわば意図せざる結果をオナ禁が生み出していないのか。
そこまでの目線を見せつつ、語りの中で見られるテーマを整理していく。それが修論段階での到達点になる。
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そうしてみると、これまで雑駁に分析をしてきた素材の中から、とても興味深いキーワードが出てきた。
それが、「ルール」「日数」「効果」という概念の水準での語彙と、「報告」「計測」「造語」「境界画定」「参照」「結合=編成」という行為の水準での語彙である。
これらがオナ禁を成立させ、強固なものにしていく〈原型〉となっているのではないか?という予想に進んできた。
以前までは、概念が作り出す意味論の領域だけが問題になっていたが、それだけでなく、オナ禁実践者がなす行為にも、オナ禁を支える力が見いだせそうだ。行為が規定されている条件が見えてくれば、構造への目配りが可能になる。
すでに拾い集めてきた素材の中にも、見るべきものはまだまだあるようだ。引き続き深めていく。