jozkado’s diary

オナ禁を実践しながら『オナ禁論』執筆をする院生の業務報告。執筆のためのメモなど。

2日目

6時40分起床。毎週木・金の朝のドイツ語ラジオはできる限り逃さず聞けるようにしたいところだ。

 

【研究メモ】

Chapter2 Historical Frames of Abstinence

(導入)

テュロスポルピュリオス(新プラトン主義者。プロティノスの『エネアデス』を編纂)は、『節制論』や『禁肉食論』などを著した菜食主義者で知られる。

Firmus Casticius(プラトン派の哲学者)の食習慣の変化に対する彼の批判から例示が始まる。テュロスは「正しさが禁欲によって増すのは本当に明らかなのか」というCasticiusの結論に異を唱える。

→現在も、正しさや、他の倫理的な点で禁欲について考えられることに我々は慣れている。神話がその美点を強めることもしばしばである。

(ギリシャ神話のヘスティア―、アテーナ、アルテミス。アフロディテ(愛と性欲の神)によってあらわされる誘惑に闘う)

 

過去を見ていくことで、「not-doingが、常に道徳性を有していたり、それしか有していなかったりするわけではない」ということがわかってくる。

かつての禁欲実践者をより詳しく見ていくことで、「禁欲の”参加者(crusaders)”でさえ、一見してそう思われるような存在ではないかもしれない」ということが明らかになる。つまり、「禁欲することを支える他の根拠が、倫理的特質について考えることよりもしばしば勝る」ということである。(p.36)

  • 枠組み(frames)が、禁欲実践者たちにとってきわめて重要であるということ

例) テューダー朝期の殉教者

  禁欲行為への道すじをつけ、規制しただけでなく、恐れや、最期の行為が自分の意思での自殺である可能性についての恐れを和らげた〔自殺ではなく殉教とされたことによる〕。

 

「禁欲の物語は、流動的な枠組みのなかの1つである」(p.36)。枠組みを知ることで、アウトサイダー的見方に似ているように思われる様々な禁欲も、内部者の観点から行為を理解するのに重要な道具になる。以下の節で、いくつかの枠組みを整理していく。

(メモここまで)

 

【日記(20/10/22)】

昨日で第1回の研究進捗発表という基準点を通過したので、ドイツ語とムラニーの文献を読んで、ひと作業してから3限受講、という流れに戻った。

 

ドイツ語だが、これまで動詞の法(直説法・接続法)や時制についての文法知識を重点的にやっていた(というか、そこしかまともにやっていなかった)ということに気づいた。2級を突破するには、それらの文法は基礎として、一般的な文章が読めるだけの総合的な語法と文法知識が必要だと痛感した。名詞、不定代名詞が弱い…

 

そして約1か月ぶりにボキャブラリー表を更新した。既出単語を覚えるのも毎日継続していなければならない。あと1か月と少しになったので、えり好みせず取り組みたい。

今日はドイツ語についてのコメントが多くなった。

 

あとは、毎週のごとく木曜日は個別指導の準備の比率が増す。東大現代文の過去問と小論文のテキスト作成を行う、といった作業で夕方~夜はあっという間だった。

金曜・土曜とさらに時間的な余裕が限られるので、集中力が試される。