8日目ーー禁欲の類型化という沼
6:45起床
日曜日はカフェの開くのがいつもより遅めなので、家で過ごす寒い時間を減らすべく、少し遅めの起床にした。
布団から出るのは辛いが、目覚ましで安定して起きることは出来るようになっている。
これは続けたい。
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さて、今日も理論整理に注力する日である。
読んだだけで本文に反映していなかった、ウェーバーとフーコーの禁欲に関する議論をまとめる作業を行ったのだが、途中でドツボにはまり、午前中にウェーバー、午後にフーコーをまとめるので時間を使い尽くしてしまった。
一体何でドツボにはまったのかというと、禁欲の類型に関してである。
今まで、禁欲には「それ自体に価値がある禁欲」と「道具的な役割がある禁欲」とがあると考えていて、前者に宗教的な禁欲が含まれると考えていた。
しかし、ウェーバーの『プロ倫』を読むかぎり、プロテスタンティズムの世俗内禁欲は、合理的な生活態度のための手段として行われていると考えられているようだ。
とすると、目的-手段という関係において禁欲が道具として用いられているということになる。
ただ、これを言い出すと、中流階級の象徴的な地位を維持する「ために」行った禁酒運動も道具的な役割をもつ禁欲になる。
そもそも、目的-手段の関係というのも、目的と手段の間に飛躍があるものもある(参政権要求の「ための」断食など)。こうした禁欲を、たとえば「臨床心理学の現場において、被験者が嗜癖かどうかを判断する「ための」禁欲」と同じ括りにしてよいのか。
じつは、目的-手段の関係において道具的な役割をもつ禁欲の中でも、これらの関係に飛躍が大きいものと小さいものとでは、「客観的に非合理」な禁欲と「客観的に合理的」な禁欲とでわけなければならないのではないか。
では、その「客観的/主観的」とか「合理的/非合理」といった判断軸は、誰の視点なのか。禁欲の実践者なのか、それとも観察者なのか。
……など、もはや新しく「禁欲の類型化」を考え始めてしまったのだ。
こうした理論化の作業はゆくゆく必要になるような気はするのだが、少なくとも今すべきことではないと思い、思考を中断した。
オナ禁が道具としての禁欲のタイプで理解することが可能であること、その場合でも、マラニーが見落とした禁欲の問題系における重要問題は問わなければならないこと。
そして、道具としての禁欲でオナ禁を理解する道を開くばあい、その目的-手段の関係を媒介し、オナ禁を支えている重要な要素である「効果」に着目して研究を始めるべきであること。
今はこれらを論理立てて説明することが最優先だと思う。
思わぬ進捗だったが、明日、NoFap関連の研究をレビューして、健康の社会学の理論的整理まで進めていきたい。