jozkado’s diary

オナ禁を実践しながら『オナ禁論』執筆をする院生の業務報告。執筆のためのメモなど。

5日目――欲望の根底

6:30起床


目覚めは良くなってきた。「とんでもない寝坊」は安定してなくなってきたのではないかと思う。


午前中は『健康の語られ方』を再読しながら、オナ禁研究の理論的背景を考える時間をとり、残りは2ちゃんねる分析とした。

午後も同じように、『オルレアンのうわさ』の一部を再読したのち、2ちゃんねる分析を行った。


最近、掲示板分析ばかりでKindleが進んでいないが、序章で用いる2ちゃんねる資料の分析は今週でだいたいのかたをつけて、8月に入る来週から、ガッツリとKindle分析に入れば良いだろうと思っている。

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分析しながら、疑問に思うことがある。


「なぜ、オナ禁実践者は「効果」を求めるようになっていったのだろう」


ということだ。


2ちゃんねるを分析する限りでは、当初の「効果」はあくまで少しずつ、体験者の語りの蓄積によって構成されていったもので、そのレベルではまだオナ禁はゲームに近いものであった。


「効果」は一定期間やり遂げた者についてくるオマケのようなもの、あるいは、やり遂げた者が振り返ってみて、「今までと違った気づき」を言語化したものであるような、「地に足のついたもの」ではなかったか。


それがいつからか、「効果」欲しさにオナ禁に取り組む流れができ、「効果」を最大化するための「正しい方法」がプログラム化され、情報商材と化していく。


商材化が成立するのは、間違いなく「効果」にそれだけの欲望を喚起させるだけの力があるのだろう。




ただ、この問いに対する答えはある程度見えている。



オナ禁の目的で多くを占めると言われる、「モテたい」という欲望だ。




しかし、「モテたい」とはやはりそんなにも強い欲望なのか……



「当たり前だ」



という答えが返ってきそうではある。



でも、本当にそこが欲望の源泉なのだろうか?



もっと身体と結びついた、「どうにもならない人生の行き詰まり感」みたいなものをなんとかしたい、というか…。「モテたい」はその「どん詰まり」のうちの1つに過ぎないようにも思えるのだ。



が、逆に考えれば、その「人生の行き詰まり感」、実際には様々な要素が絡み合って感じさせているであろう「行き詰まり感」を、ただ一つ「モテる」というだけで全て解決させることができる、という観念が通用しているのだと言えるかもしれない。


モテさえすれば……


この発想は、『「非モテ」から始める男性学』の著者の言葉を借りれば、「一発逆転の思考」というものだ。


オナ禁の「効果」を求める欲望は、このような「一発逆転の思考」に帰されるのだろうか。



まだ、ちゃんと見ていく必要がありそうだ。この部分は、修論ではとても出せない答えかもしれない。