jozkado’s diary

オナ禁を実践しながら『オナ禁論』執筆をする院生の業務報告。執筆のためのメモなど。

13日目

【日記】(20/06/13)

6時40分起床。午前中で牧野(2012)は読み切り、マーネンのアート・ワールド論を少し読み進めた。

牧野(2012)の終章を読む中で、ゼミの先生がしばしば使っていた、ピエール・ブルデュー由来の「ゲーム」概念の出処にやっと行き着いた。情けない話、『ディスタンクシオン』は去年Ⅰの半分くらいまで読んだが、その後パタリと読まずにここまで来てしまっている。7月中に優先的に読みきるべき。

今後繰り返し参照するであろう箇所なので、メモとしてここにも残しておく。「闘争目標としての文化」について語る部分である。

文化とは、あらゆる社会的闘争目標〔賭金〕がそうであるように、人がゲーム〔賭け〕に参加してそのゲームに夢中になることを前提とし、かつそうなるように強いる闘争目標のひとつである。そして競走、競合、競争といったものは文化にたいする関心なしではありえないが、こうした関心はまたそれが生みだす競走や競争それ自体によって生みだされるのだ。フェティッシュの中のフェティッシュともいうべき文化の価値は、ゲームに参加するという行為が前提としている最初の投資のなかで、つまりゲームを作りだすとともに闘争目標をめぐる競争によって絶えず作り直されるところの、ゲームの価値にたいする集団的信仰のなかで、生まれてくる((Pierre Bourdieu, 1979, La distinction: Critique sociale du judgement, Paris: Editions de Minuit. (=1990, 石井洋二郎訳『ディスタンクシオン——社会的判断力批判Ⅰ』藤原書店, 386ページ。)))

 

午後からは横浜でオープン研究会に参加。

コロナウイルスの広がりと、現在のメディア環境が生んでいる諸現象(オンライン授業・講義、リモートワーク)について、フラットに議論を広げてみようという会であった。

チェコユダヤ人のヴィレム・フルッサーが分類・提示したコミュニケーションのタイプから、現代のインターネット環境下のコミュニケーションの形態をとらえようとする議論は面白いと感じた。

また、ビデオ通話での経験、特に参加者全員の顔が画面分割されて表示されるzoomのようなツールを用いてコミュニケーションをするときの経験についてなど、いま記録して残しておくべき経験があると感じた。

 

昨年度、卒論を書くためにお世話になった先生から、改めて卒論を読んでの感想をいただいたが、どうも「自分が書きたかったこと」の中心がその通りに読まれていないことがわかった。

卒業論文では、日本のIT企業で「デジタル・アート」を制作するチームラボについて、彼らの作品が「アートである/アートでない」という対立する評価の論争を生んでいることに着目した。この論争に決着をつけることが目的なのではなく、論争が生じた経緯と原因を探ることでアート業界内部の行為者の関わりを描くことを目的とした。分析の枠組みとしてハワード・S・ベッカーの「アート・ワールド」概念を導入し、彼らの作品の流通のさせ方と、アート業界が抱えていた課題の解決策との間の実践の絡み合いが、チームラボの作品がアート業界の中で語られるようになる契機になっていることを分析から示した。そういうつもりだったのだが、どうも「チームラボの作品はアートとして評価されるべきものである」といった主張に捉えられてしまっていたようである。

来月初旬に社会学のゼミで研究進捗の発表があるが、そこで自分の方向性と卒論で扱ったことを正確に伝えるために、卒論の内容を今一度丁寧に確認しなおそうと思う。

帰るのが遅くなったので日を跨いでしまった。明日はおそらくRの統計に集中する日になると思う。