7日目――頭を使う
【日記(20/10/27)】
6時10分起床。午前中、ドイツ語学習中の眠気が強烈だったが、何とか乗り越えた。昨晩の息苦しさも特に何事もなかったようだ。
なんとなくだが、夜遅くなって就寝が近くなると、息が苦しくなって酸欠気味になる感じがある。単に体が睡眠を欲しての反応ならいいのだが。
今日は昨日に続き、調査のためのインタビュー。
下調べも綿密にやったが、いざ聞いていこうとすると、深掘れたかといわれるとあまり自信がない。
人の話を聞いているときに、内容を追うので精一杯で、基本的に、突っ込んだり確認をするために頭を使えていないのではないか。
そう感じた時間だった。
頭を使っていくには、核となる問題意識を強く握っておくことが大事かもしれない。
まだまだ改善していく必要がありそうである。
明日の午後には簡単な報告書を完成させて共有することになる。明日の午前中は普段とは少し時間の使い方が異なってくるだろう。
(今日も相変わらず眠気がひどいので、研究メモは明日に回そうと思う。)
6日目――息苦しい
6時10分起床。朝から時間を区切って、夕方のインタビューまでにやるべきことを一つ一つ完了できた。
明日も夕方にインタビュー調査がある。かなり綿密に関連著作も読んだので、充実した時間にしたい。
が、なぜか今の時間になって何となく息のしづらさを感じる。深呼吸をしないと酸欠になる感覚がある。明日も大事なのでとにかく早く寝ようと思う。
4・5日目――「自分の人生を生きる」
昨日は毎週のごとく疲れ切っていたのでブログを書くまで持たなかった(起床は6時40分)。
今朝は起床が遅くなった(9時20分)が、平日の間の睡眠不足の解消にはなったと思う。
日中もその分パフォーマンスを意識できたのではないかと。
【研究メモ】
Chapter2 Historical Frames of Abstinence
第1節 The Religious Frame
第1項 Early Christian Ascetics
とりわけて節制(とくに性的行為の観点で)の宗教といわれるキリスト教は、聖書を準拠に禁欲を推進する。
(コズニックKosnikによる歴史研究から)
聖書は、性に関する命令に関して、絶対的な答えを提供できているわけではない。時代的な背景や文化・社会的な状況に対して聖書は見られなければならない。〔キリスト教においては〕倫理への関心ではなく、カルト的な純潔への関心から、性〔行為〕とのネガティブな結びつきは由来している。
こうした動機について表しているのは、オナンの物語である。
この物語の最も一般的な読まれ方は、マスターベーションと男性の精液の浪費の禁止としての読まれ方であるが、コズニックは次のような解釈をする。
「早死にという形で神がオナンを罰したのは、オナンが自分自身に触れる〔=自慰行為をする〕という”罪”を犯したからではなく、彼の亡き兄の妻との結婚を拒んだからである。」
この女性と結婚することで、自分ひとりで得られるはずの兄の遺産の相続権を占有できなくなることをオナンは知っていた。彼はその強欲さゆえに罰せられたのだ、というのである。
では、セクシュアリティはいかにして、キリスト教信仰において道徳的なあやまちという重荷を負わされるようになったのか。
コズニックの見立てでは、預言者の影響のもと、純潔のカルト的な観念が内部化され、深遠な道徳的概念へと変容した、ということである。(キリストの死後、聖パウロの訓戒→宗教的行為としての禁欲へ)
(2世紀半ば~ 異民族による襲来をローマ帝国は受けていた)
皇帝の力が弱まる中、市民は悪の存在に説明を与えようとキリスト教に改宗してゆく。
人びとは内向的になり、悪を個人的なレベルで対処する方法を見出した。それが、禁欲を通して自発的に苦しむことによってである(Hunt 1994)。
他方、「自らの置かれた状況を別な視点で見て、自分たちは専制的な支配者の犠牲者だと考えた者たちは、既存の社会状況に対してより攻撃的なアプローチをとった。興味深いことに彼らが行き着いたのは同じ目的地だった。それが禁欲である。」
生殖を断つことで、現在の時代が続くことはさまたげられるように、禁欲は〔今の世の終わり(と救世主の出現)を表す、というような〕論理的解決策になったのである。
第2項 Medieval Female Fasters
中世(12世紀後半~14世紀)、断食が、キリストと一体になる手段として多く実践されるようになっていた。
興味ぶかいのは、この断食という形式での禁欲の実践をしていたのが、圧倒的に女性であったという点で、この実践がきわめてジェンダー化されていたということである。
こうした実戦は、食の問題に女性が苦しんでいたことの〔歴史的な〕始まりを記録したのだろうと、我々はすぐに思いこんでしまうかもしれないが、中世のこのような女性たちを研究している者は、そうは考えない。
「食べ物と身体について、全く異なった理解がされていた文脈においてその欲は起こっていたのだから、最近の歴史的なレッテルをこれらの断食に安易に押しつけることは絶対にできない。その理由を彼らは示している。」(p.40)
(メモはここまで)
【日記(20/10/25)】
若者・ひきこもりをテーマとした調査を進めていて、インタビュー対象としている団体の方の著作を読んでいるが、やたらと沁みる内容だった。
「自分の人生を生きろ」と。
詳細は省くが、子を思う親にとっても、親に申し訳なさを感じている子にとっても、最も大事なのは「自分の人生を生きる」ことだと。
”ふつうの”ライフコースを進んでいれば、社会人4年目になっていたはずだった。自分の仕事の出来なさを不安に感じて社会に出られず、研究が好きだとは言え院進という選択に胸を張れていない。どこか「仕事に就くことから逃げているだけでは」という気持ちを抱えている自分にも、刺さる話が多かった。
「自分の人生を生きる」。決して簡単に頭を切りかえることはできないだろうが、たまには考えたいテーマだろうとは思った。
明日、明後日と社会調査のインタビューがあったり、個別指導が普段より前倒しであったりと、今週よりあわただしくなることが予想されるが、パフォーマンスを意識して丁寧に生活をしていこうと思う。ブログのアップも少し早めていきたい。
3日目――多忙でも落ち着いていられる
6時10分起床。シャワー後にドイツ語のラジオを聴きながら身支度をした。
平日はこういうルーティーンで固めていきたいところだ。
【研究メモ】
Chapter2 Historical Frames of Abstinence
(注:本章では4つの枠組みが示される。以下では節の(読み進めていった)順でまとめていくが、先に大枠だけ残しておくと、(1)宗教、(2)娯楽、(3)抵抗、(4)自分自身〔のよりより生〕である。枠組みというとわかりにくいが「~のための禁欲」という風に置き換えるのがひとまずは理解しやすいのではないかと思う)
第1節 The Religious Frame
禁欲をせよ、という戒めはあらゆる宗教に浸透している。タブーのように、禁欲は、集団の一員であるための対応としての役割を果たす。つまり、要求されている禁欲の基準を満たさないようにすると、その特定の宗教の一員だと認めることができない、ということである。
(ピューリタンの禁欲にカルヴァンが影響を及ぼし、禁欲的実践で知られる宗派となった、というように、指導者の実践が広まるとするモルトン・フントMorton Huntの主張を批判)
宗教と禁欲の関係は複雑である。「宗教的文脈における禁欲を説明することで、しないことの決定が、いかに、常に完成した(always-already)、トップダウンで強制的な実践になる必要がないかが明らかになる。多くの場合、個々人が究極目的(instrumental ends 注:この訳でよいのか微妙)に到達する手段として自発的に禁欲を利用している」。(p.37)
宗教において、禁欲実践者が禁欲形式を戦略的に選択している様に注目していく。宗教的な禁欲の枠組みにおける創造的な行為主体性が明らかになるだろう。
(以下、第1項で初期キリスト教徒の性的禁欲の実践者を、第2項で中世の女性の断食実践者を例とする)
(メモはここまで)
【日記(20/10/23)】
独検2級の過去問アタックの復習を今日で終わらせる予定だったが、想定を超えて時間がかかりそうなので、日曜日に完成を目指そうと思う。先週の日曜のような過ごし方にならないように気をつける。
この一週間もあわただしいが、先週よりも落ち着きをもって一つ一つに取り組めているように感じる。スキマ時間の活用や、自分が設定した時間の中で集中力を高められるようになっているのだと思う。同じ時間内でも出来ることが増えている。
明日もパフォーマンスを上げていく。
2日目
6時40分起床。毎週木・金の朝のドイツ語ラジオはできる限り逃さず聞けるようにしたいところだ。
【研究メモ】
Chapter2 Historical Frames of Abstinence
(導入)
テュロスのポルピュリオス(新プラトン主義者。プロティノスの『エネアデス』を編纂)は、『節制論』や『禁肉食論』などを著した菜食主義者で知られる。
Firmus Casticius(プラトン派の哲学者)の食習慣の変化に対する彼の批判から例示が始まる。テュロスは「正しさが禁欲によって増すのは本当に明らかなのか」というCasticiusの結論に異を唱える。
→現在も、正しさや、他の倫理的な点で禁欲について考えられることに我々は慣れている。神話がその美点を強めることもしばしばである。
(ギリシャ神話のヘスティア―、アテーナ、アルテミス。アフロディテ(愛と性欲の神)によってあらわされる誘惑に闘う)
過去を見ていくことで、「not-doingが、常に道徳性を有していたり、それしか有していなかったりするわけではない」ということがわかってくる。
かつての禁欲実践者をより詳しく見ていくことで、「禁欲の”参加者(crusaders)”でさえ、一見してそう思われるような存在ではないかもしれない」ということが明らかになる。つまり、「禁欲することを支える他の根拠が、倫理的特質について考えることよりもしばしば勝る」ということである。(p.36)
- 枠組み(frames)が、禁欲実践者たちにとってきわめて重要であるということ
例) テューダー朝期の殉教者
禁欲行為への道すじをつけ、規制しただけでなく、恐れや、最期の行為が自分の意思での自殺である可能性についての恐れを和らげた〔自殺ではなく殉教とされたことによる〕。
「禁欲の物語は、流動的な枠組みのなかの1つである」(p.36)。枠組みを知ることで、アウトサイダー的見方に似ているように思われる様々な禁欲も、内部者の観点から行為を理解するのに重要な道具になる。以下の節で、いくつかの枠組みを整理していく。
(メモここまで)
【日記(20/10/22)】
昨日で第1回の研究進捗発表という基準点を通過したので、ドイツ語とムラニーの文献を読んで、ひと作業してから3限受講、という流れに戻った。
ドイツ語だが、これまで動詞の法(直説法・接続法)や時制についての文法知識を重点的にやっていた(というか、そこしかまともにやっていなかった)ということに気づいた。2級を突破するには、それらの文法は基礎として、一般的な文章が読めるだけの総合的な語法と文法知識が必要だと痛感した。名詞、不定代名詞が弱い…
そして約1か月ぶりにボキャブラリー表を更新した。既出単語を覚えるのも毎日継続していなければならない。あと1か月と少しになったので、えり好みせず取り組みたい。
今日はドイツ語についてのコメントが多くなった。
あとは、毎週のごとく木曜日は個別指導の準備の比率が増す。東大現代文の過去問と小論文のテキスト作成を行う、といった作業で夕方~夜はあっという間だった。
金曜・土曜とさらに時間的な余裕が限られるので、集中力が試される。
1日目――前進のイメージ
【日記(20/10/21)】
6時起床。無理やりYoutbeMusic作戦は今のところ効果があるようだ。
すぐにシャワー、朝食を取り、13時前までカフェで作業という流れをとった。
日中は笑ってしまうほど頻繁に欲の波に襲われた。やるべきことに集中する時間が減る原因にもなる。引き続きオナ禁にトライしていくなかで経過をみてみたい。
【研究メモ】
ムラニー(2006)つづき。1週間ぶりなのでやや量が多くなる。
Part1 The Social Shape of Abstinence
Chapter1 Seeing Not Doing: Time, Place, and Language
第3節 Language
第1項 Term Dillenmas, Part One: Invisibility
(禁欲を記述する用語が使われない問題、not-doing自体の認識が明確にならず、doingの否定の側面が強調されているという指摘がされた)
たとえば、” virgin" という言葉について。これは名詞から形容詞への拡張用法があるが、独自の形(の点)で実践されてきた禁欲の形式を認識しそこなっている使われ方をしている。
(not-doingを理解するために、ある行為をしばしば参照しなくてはならないとはいえ、)
「それ自体として禁欲を認識する用語が次第に辞書に現われているという事実を無視するということはできない」(p.28)
また、興味ぶかいのは、そうした用語に対して抵抗感を示すのは一般大衆だけでなく、おそらく推進派だろうと思われる人にもいるのだ。
第2項 Term Dilemmas, Part Two: Inadequacy
禁欲というふるまいを正確に表現していない問題は、ふるまいの分類〔典型化〕によって複雑になる。
- バーガーとルックマン
人びとは知識の社会的蓄積を用いていて、そこに「典型化された」用語が含まれているのだ、と考えた。
こうした用語のおかげで、似ているが常に少し異なった経験をしている他者を包摂することで、個々人の個人的な出来事を客観性を減じて状況づけることができる。
→このように考えてみると、この第二の問題は、「禁欲の所与の形式のなじみのなさにしばしば由来するけれども」、次のような時にもまた表面化する。すなわち、「個々人が認識可能な〔言葉にしようと思えばできる〕禁欲を実践しているのだが、大半の人が典型的にそうするやり方を拒むかたちでそれをやっているとき」である。(p.29)
⇒用語はニュアンスを捉えそこねてしまう
- BeardsworthとKeilの研究(1992)
禁欲実践者たちの違いはたしかに認められるが、「気まずくなったり変に映ったりする」ことを避けるために、既存のカテゴリに自らを押し込めようとし続けていることを見出した。
※レベッカの例…本当は(厳密には)魚食主義者なのだが、肉を食べるのがベースの社会でなら菜食と言ったほうが受け入れられやすい。
- 言語と禁欲をめぐる困難
※ベジタリアンのルス(Ruth)の例
単なる菜食を超えた禁欲(食べ合わせ)は、
⑴合致する一般用語がない
⑵人は先に経験したことで構成された類型に依存して新しい経験を扱う(シュッツ&ルックマン, 1973)
といった水準で他人に理解されづらい。
⇒(本当は「それってベジタリアンじゃなくない?」といった申し立てをされることで生じうるスティグマや当惑をなくすはずなのだが、)日々の食習慣において、というよりはその時〔だけ〕の好き嫌いというように位置づけられる言明になってしまう。
第3項 Language and the Locus of the Self
上述の2つの困難〔不可視性、不適切さ〕のどちらであれ、言語の制約によって、not-doingに自らのアイデンティティをある程度基礎づけている人にとって根源的な問題が引き起こされる。その問題とは、自己の根源(中心, Locus)をとらえることができないという問題である。
「自分が何者であるかは分からないが、喫煙者ではない」と、自己の識別について回答に困っていたブルースの発言から、「行為(doing)」と「存在(being)」との間の結びつきを明確にする際の言語の役割に関して、興味深い問題が生じる。
- 一方では、「存在」としての資格を得るためには積極的にその行為に従事しなければならない
- 他方で、いくつかの禁欲にとって利用可能な用語がある。(その禁欲により、ある存在は行為の不在を貫くことができる⇒喫煙していなくても喫煙者ということができる) ※この部分は何を言っているのか正直分かっていない
言語によって、行為をしていなくてもある状態・存在であることができるのと同様に、ある状態・存在でなくても行為をすることができる(上の2点の前者の逆)。それを可能にする言語として、socialやcasualを挙げている。この語がつくことで、ある人の行為が、その人が誰であるかを指し示すものとして扱われるべきではないと意味するのに役立つ。
ムラニーはこれを言語的戦略(linguistic strategies)と呼んでおり、この戦略が、”doings”〔行為〕が”being”〔存在〕を指し示すものとして見なされるべきではないということを指摘している。
- 言語の別な機能
言語によって、時間(メモ:時間的な不可逆性)の点で禁欲実践者を位置づけることができる。
例:chaste(純潔な、貞淑な)、celibate((特に宗教的理由で)独身[禁欲]を誓った)と、virgin(処女の、童貞の)の間の違い:
同じ「性的禁欲を実践している」といっても、
すでに経験済み ⇒ ”born-again virgin”
”secondary virgin”
”celibate” など
これまでに未経験 ⇒ ”virgin”
のように、言語によって位置づけが変わる、という。
人が禁欲しているのか、それとも自発的でない理由のためにある行為に参加できていないだけなのかを、言語がはっきりさせるかもしれないのとちょうど同じように、言語はまた、禁欲することの背後にある動機における差異に洞察を提供するかもしれない。
次項で、禁欲(行動)をとりまく言語から、not-doingの動機についてより詳しく明らかにしていく。
第4項 The Durability of Identity (アイデンティティの持続性)
自己の根源であると個人が感じるものをとらえる、装置的な役割(instrumental role)に加え、ある用語やフレーズは、アイデンティティの持続性(あるいは脆弱性)についての考えを反映してもいる。
virginity ⇒” loss”⇒ ” born-again virgins”
(移行(return)が許されていない、不可逆さを含む禁欲カテゴリ)
他方、他の禁欲カテゴリでは、実践する余地があり、再開したり、やめたりと納得できる移行が可能となる余地がある。
⇒アイデンティティの持続性に関して、こうした差が生じるのはなぜか?
その問いへの簡単な答えは、身体への影響の度合いに焦点を当てることにより得られる。性〔行為〕と依存の関係は、他の行為ではできないと我々が考えるようなやり方で身体を変えるのだと。しかし、なぜ我々はそう考えるのだろうか?
ここで与えている答えには、文化的差異を挙げている。ムスリムにとって、豚肉を食べるという行為がアイデンティティに及ぼす影響は、私たちにとっての性的関係において考えられるのとパラレルに考えられる。
- 他の表現からみる、禁欲実践者のアイデンティティの不安定さ
・以前の自分からの完全で圧倒的な変化を要求していることを示唆する”turning over a new leaf”(新しく生まれ変わる)や、”not looking back”(振り返らない)といった表現
・また、いったん禁欲を実践すると、禁欲する能力をめぐる恐れやいらだちが他者に向けられる。「他の人々や何らかの行為によって、自分たちが”堕落し”たり、”汚され”たり、”破壊され”たり、自分たちの努力が”覆され”たりする」ことを恐れているのである。
第4節 If, When, and How We "See" Abstinence
(本章第1~3節をまとめると)禁欲実践者は、時間性(time)、地理性(place)、そしてとりわけ言語によって抑制されている。
言語がもつ問題(禁欲実践者を表現できていない、彼らの実践を理解できていない)は、新たな用語が出現することでいくぶんか緩和はされる。「強力に組織化された分類システム」が、特定の利用可能なカテゴリを形成するからだ。
しかし、そのようなシステムは、”カテゴリが日々の生活における知覚[認知]を枠づけたり、行為を方向づけたり、自己理解を形成したりするのに重要な役割をもっていることを伴って”いない限り、不十分なままであるかもしれない。
本章で示された問題には、やらないことを選択するあらゆる人が、時代を超えて直面する。よって、事象で近代の禁欲実践者から戻って見ていく。
- 禁欲を形成するのに時間性と地理性(time and place)がいかに重要かを明らかにする
- 時とともに禁欲が枠づけられていったその多様なありかたを明らかにする
(メモはここまで 明日から2章に入っていく)
今日のゼミで、オナ禁論の研究進捗を報告した。フォーマルなゼミの場で報告したのは初めてだったが、思っていた以上にコメントをいただけたので驚いている。このテーマで進んでいける希望が見えてきた。
次の進捗報告で重要なのは12月15日。50日ほどある中で、「このテーマで進んでいける」という確信と、ベースの論述に着手できるよう進めていきたい。
- 事例にあたる。現象の中心に迫っていく。
実践を支える環境に注意を払うことが重要。実践に至る思考や、契機となった経験について言及されている箇所がねらい目。
- Mullaney(2006)のレビューを完了する。
内容だけでなく、活かせる論点を見出す。自分の明らかにしたい関心を答える枠組みがあるか否か。ないなら批判点として指摘できるようにする。
- 参考文献リストを整理する。
一次・二次文献の大別に加え、議論の領域別で大きく分類できるようにしていく。
- 目次をつくり、射程を決める。
非常に長くなった。前進できるイメージを明確にしていく研究の日々を過ごそう。
2→0日目――堤防を軽々と越えてきた
【日記(20/10/20)】
6時20分起床。起床直後にリセットしてしまうリスクを減らそうと、前日の就寝前にYoutbeMusicで朝かける曲をセット(一時停止)した状態で画面オフにすることにした。
これで、起床後すぐイヤホンを耳に差し、曲を聴いて目を覚ますことができる。それで何とか朝をこえることができた。しばらくはこの方法で朝強制的に目を覚ましていきたい。
日中はゼミの前までカフェに行き、何とかパフォーマンスを維持することができた。
こんな状況でも明日には研究進捗の発表をしなければならない。ぶっちゃけ前回からほとんど進捗を生めていないのだが、それでも進んだところを報告しようと思う。
さあ明日も頑張ろう
と思っていた矢先に、あろうことか就寝前のこの時間にリセットしてしまった。ブログの内容も大幅な変更である。
夜にこの状況に陥ることは珍しいのだが、個人的には性欲をおさえる堤防をいとも簡単に波が越えてきた感じで、気がついたら抑えが効かなくなっていた。
他人事のように書いているが、基本的に自分が依存症傾向にあることは間違いないだろうとおもう。まるでタガが外れたように継続しなくなるのは自分でも怖くなる。
何か大きめなものの〆切だとか、気持ち的に重さを感じるものが迫っているときにストレスを感じやすく、それをごまかし逃避するために行為に及んでしまう、という感じ。
このループを抜け出せないのは、有効なストレス対処法が限られているからではないかと本気で思う。
ガタガタでもいいからまず明日を乗り越え、態勢を立て直すこと。
まずはそこからである。
11月10日(火)が設定し直した次なる目標。